名誉園長に就任するにあたって
名誉園長 山極壽一
この度、名誉園長に就任しました。日本で2番目に古く、しかも市民の手で作られた京都市動物園と一緒に歩むことができるのはとても幸せなことです。2015年にリニューアルして動物たちの暮らしや福祉に配慮し、すべての世代の人々に楽しんで学ぶことができるようになりました。京都市動物園は未来に大きな可能性を持っていると思います。
この地球には赤道から極地まで、熱帯雨林から砂漠まで、深海から標高数千メートルの高地まで、気温や雨量や高度の違いによって多様な自然が形成され、実にさまざまな動物たちが暮らしています。私たち人間もその一種です。でも、人間の能力は限られているので、野生動物たちの暮らしをつぶさに眺めることはできません。動物園には、世界のさまざまな地域を代表する野生動物たちが集められています。ここで私たちはその一部分を観て野生の世界を学ぶことができるのです。
動物園は「野生をのぞく窓」だと私は思っています。ここでは、野生動物たちの姿や体の仕組み、好みや生理状態、行動や心の動きなど、いろいろなことを知ることができます。でも、それは動物園という人間が用意した場所で発揮される限られた能力です。彼らが本来暮らしている場所では、自然の中で食物を探し、他のさまざまな動物と出会い、ときには肉食動物に襲われたり、仲間とけんかをして傷つけあうこともあるでしょう。野生動物の体も心も、彼らが長い年月にわたって進化してきた場所で作られたものだからです。そのすべてを動物園で知ることはできません。
動物園ではまず、人間とは違う性質を持った動物たちをじっくり眺めてください。彼らは家畜やペット動物たちと違い、人間に寄り添って生きてきたわけではありません。だから、彼らの体や行動が何のために作られているのかを理解しなければなりません。なかには動物園の環境に慣れて、人間に語りかけてくる動物たちもいます。でも人間をよく知っているわけではないので、彼らの流儀で人間と接触しようとします。そんな彼らの態度やしぐさから、彼らが実際に暮らしている野生の国を想像してみてください。そこには私たちのまだ知らない世界が広がっているはずです。
新型コロナウイルスによる感染症によって、私たちは地球が目に見えない細菌やウイルスの惑星であることに気づきました。野生動物たちは長い進化の歴史の中で細菌やウイルスと共生し、その遺伝子を体に組み込んでいます。人間の遺伝子にもウイルス由来のものが8%も組み込まれています。人間の腸内にも体の表面にも100兆もの常在菌がいて、生理状態や精神の安定に寄与してくれています。細菌やウイルスが感染症として私たちを襲うのは、私たちが生態系を大規模に破壊し、共生のバランスを崩したことが原因です。野生動物の暮らしを守ることが、人間の安全を高めることにつながるのです。
現在、100万種に及ぶ野生生物が絶滅の危機に瀕しています。私たちは動物園の窓から手を差し伸べ、時には窓から飛び出して行って、野生動物と人間の共存を図らねばなりません。そのためには、野生動物たちがどういう特徴を持っているかを知る必要があります。私たち人間も決して進化の成功者ではありません。世界各地で起こっている紛争や格差、差別など日常的にもさまざまなトラブルを抱えています。それを解決するヒントが野生動物たちの暮らしに見つかるかもしれません。動物園の窓は野生動物の立場に立って、向こう側から人間の暮らしを眺める窓でもあるのです。さあ、みなさん、動物園に行って自分の窓を開けましょう。